走シンドローム

栃木×マラソン・ランニングの情報発信│1児の凡才パパランナーの走った記録、日常、思ったことなど

スポーツとボランティアについて考えた200901

僕は、学生時代に陸上競技をずっと続けてきました。そして、社会人になってからの仕事でもマラソン大会に携わることができています。マラソン大会を運営する側になって分かったことは、支える方も(有償スタッフでも、ボランティアでも)楽しい!ということでした。その一方で、マラソン大会やスポーツに関わらず、ボランティアは課題のひとつと言われています。実際に、地方のマラソン大会ではボランティア集めに苦戦をしていることがほとんどです。
このギャップは何なのか?考えるきっかけがあったので文字に落としてみました。

 

スポーツを「する」「見る」「支える」

スポーツの楽しみ方として「する」「見る」「支える」ということはよく言われています。この中で現状異質になっているのは「支える」です。まさしくボランティアですね。

自分の経験で言えば、「する」の一番最初は子供の頃の遊びであり、中学生からの部活動でした。どちらも好きだから、楽しいからという純粋な気持ちから始まっていて、今でも市民ランナーとして楽しんでいます。ここのハードルはかなり低いと思います。大人でも、何かのきっかけに趣味として運動し始めるってことは多いと思います。

次に「見る」。僕の原体験で言うと「箱根駅伝」。そして小学生の時に開催された「日韓W杯」。トップレベルの選手が躍動する姿を見て楽しむ、「する」よりもハードル低くスポーツを楽しむ方法となります。

最後に「支える」。僕の中でこれは何だろうな…と思い返してみると、陸上競技部だった時、自分の競技がない日に「競技役員」をやっていたのが最初の記憶のような気がします。そして、残念ながら「楽しい」という記憶はありません(笑)。何で楽しくなかったのかと考えると、単純な労働として捉えていたからだと思います。部活動には競技をするために入っていたし、仲間と過ごすのも楽しかったし。でも、労働するために部活をしていたわけでもなければ大会にきていたわけでもないんですよね。この感覚、すごく重要だと気づきました。

 

「受動」と「能動」

「する」も「見る」も子供ながら能動的に楽しんでいることがわかります(少なくとも僕はそうでした)。しかも、場合によってはお金を払っています。当たり前ですが、時間も割いています。

それに対して「支える」は完全なる受動でした。お金は、場合によってはもらえることもあります。ボランティアの1000円とか、クオカードとかですが、お金を払って「する」「見る」よりも金銭的にはプラスであることには間違いありません。でも、「楽しくないし、自らやっているわけではないことにこんなに時間を割いてこれしかお金もらえないの?」となってしまいます。受動であり、労働という感覚だからだと思います。

この感覚は、決して子供に限ったことではありません。自ら「する」「見る」のが楽しいスポーツに、わざわざ貴重な時間を投下して「支える」までしなくても…というイメージがついてしまっていると思います。後述する様々な要因はあると思っていますが、年間何回もマラソン大会に出ている人(する人)が、その1~2割でも「支える」に回ったら、このボランティア問題は一気に解決すると思います。それどころか「支える」という新しいスポーツの市場ができあがるとさえ思います。

根本的に何が問題なのか。「支える」=「楽しい」になっていないことだと思います。

 

「42.195㎞を走るのは楽しい」というイメージ

スポーツを「する」「見る」は楽しいという感情をきっかけに能動的に取り組むものが大半ですが、「支える」はつまらない・労働というイメージから受動的になり、受動的になるとよりつまらなくなるという負のスパイラルにはまっていると思います。もしも、「支える」が楽しいというイメージであれば、能動的に取り組むことができますし、実際に楽しいです(←ここだけかなり主観的ですね。笑)。経験として「ボランティアをやってみたら意外と楽しかった」という声も多く聞きます。

考えてみてほしいのですが、42.195㎞を走るなんていう行為は、ほんの数十年前にはトップアスリートだけの世界だったのです。一般人がそんなことをやろうものなら「つらい」「苦しい」というイメージが先行して、実際に走ってみてもつらいし苦しいし、一切楽しくないと思います。ですが、今の日本ではこれだけフルマラソンが流行っていて、1度きりではなく何度も挑戦するんです。これは、数十年前のマラソンと価値観やイメージが変わったからだと思います。なぜこの数十年でマラソンのイメージが変わったのか…というのは全く別の話になってしまうので書きませんが、そのイメージになるべくきちんと文化として整えてきた期間があったわけです。

そして、ボランティアだってその位置になる可能性を秘めていると僕は思っています。前述の通り、実際楽しいのだもの(笑)。

 

「ボランティアが楽しい」は誰が創るのか

このイメージを個々変えるのは非常に難しいと思います。これは、大会を創る側、マラソン(スポーツ)文化を創る側が工夫しなければならない問題です。

マラソン大会がこれだけ増えている中で、各大会主催者は参加者を集めるために大会に参加する魅力を打ち出していますよね。東京マラソンなど大型大会の牽引もあり、全国的に相乗効果を生み、「参加する(する)」側はどんどん増えていったわけです。参加者がいないと大会は成り立ちませんし、主役は参加者ですから、当たり前のことだと思います。

そして、大会でなくてはならない人といえば「支える」人です。マラソン大会では、その大半がボランティアというくくりになっています。このボランティアを能動的に楽しいと思って参加している人がどのくらいいるのか。おそらくほとんどいないんじゃないかと思っています。結果論楽しかった、という人はいるかもしれませんが、自ら大会を探しだしてボランティアをするという能動的な人はほとんどいません(これがたくさんいたら、ボランティア足りないよ問題は起こりません)。

マラソン大会は、ランナーがお金を払って参加するもので、主役はランナーに間違いありません。ただし、「見る」人も、そして「支える」人も楽しむべきというのが持論です。スポーツへの関わり方が、大きくその3つである以上、その全てを含めてスポーツの楽しさですし、それを提供できる場を創ることまで大会主催者側で考えるべきだと思っています(各論は今回割愛します)。

 

スポーツの持つ可能性

スポーツを「する」「見る」文化はかなり醸成されてきました。一方で、「支える」文化はまだまだ発展途上。しかし、確実に楽しいものだと思いますし、これが文化として構築されていった先にはまた大きな新たな市場、楽しみ方が創出されるのではないかと思っています。もちろん、「する」「見る」もまだまだ発展性があります。そう考えると、まだまだスポーツ持つの可能性というのは未知数で、やりがいのある分野だと、改めて思いました。

 

抽象的な文章になってしまいましたが、自分の頭の中を一旦はきだしてみました。