走シンドローム

栃木×マラソン・ランニングの情報発信│1児の凡才パパランナーの走った記録、日常、思ったことなど

さのマラソンの歴史

さのマラソンの歴史について、それっぽく書いてみました(笑)。何か間違いがあったらすみません。こういうの掘り下げて、取材とかして、記事とかにできたら面白いなぁ。そんな仕事もしてみたいなぁ。

 

 

さのマラソン、アップダウンがすごい、非公認フルマラソン。毎年12月2週目に開催されて参加者全種目合計で3,500名程度を集める大会。昨年の大会では「公認化」の声もちらほら聞こえ、それであればコース変更もあるのでは?という噂も聞こえてくる。

そんなさのマラソン、当たり前のように今のコースになっているが、なぜあの山方面まで行っているのか、意外と知らない人も多いかもしれない。現在のコースになってから13回の回数を重ねたが、13年前に大会ができた時に何があったか。「新」佐野市の誕生である。

 

現在の佐野市は旧葛生町、旧田沼町、旧佐野市の3市町が合併して2005年2月28日に誕生した。懐かしいと思う人もいるかもしれない「葛生原人マラソン」。旧葛生町で2004年まで開催され、22回の歴史を重ねていた。そして「どまんなかマラソン」。田沼町で2004年まで4回開催されたハーフマラソン。余談にはなるが、葛生は4月、田沼は3月と今栃木県内でマラソンが少ない時期に開催されていて、今も開催されていてば需要は多かったのではないかと思っている。さて、残るのは佐野市だが、ここでも「佐野シティーマラソン」という大会が2004年の12月まで、21回開催されていた。会場は佐野市運動公園・現在のさのマラソンと同じ会場である。

 

そう、現在のさのマラソンは、この3市町の合併に伴い、マラソン大会も合併によって出来上がったのだ。開催時期や場所は佐野シティーマラソンをベースに、田沼と葛生を通るルートで形成された。だから、「あっちまで」行っているフルマラソンなのだ。

 

当時のことを知る人に話しを聞いてみたいのは、このマラソン合併がどのくらいの期間で準備されたのか。2005年の2月28日に市自体が合併されてから12月の新さのマラソンまで9ヶ月強しかない。こんな準備期間では大会開催までもっていくのは難しいので更に前から計画されていたとは推測するが、2005年はもうひとつ佐野市では大きな出来事が起こった年だった。合併から約2ヶ月後の4月、岡部正英新市長の誕生。合併があったのでまぁ起こりえる話ではあるが、この岡部氏が陸上競技出身、更に1500mで当時の高校記録をもっていたということがおもしろい。岡部氏は現在(2018年2月)も現職でスポーツ・マラソンや陸上への力の入れ方が強いことでも有名。この岡部市長の影響が
ラソン大会にないわけがない。

 

2004年各市町最後の大会を開催、2005年2月合併、同4月新市長誕生、同12月新さのマラソン誕生。マラソン大会と行政というのは強い結びつきがあって、こういったことを掘り下げていくと非常に興味深く追求していきたくなる内容が多くある。栃木県内では「10回~15回」という大会がいくつかあるが、上記平成の大合併に影響を受けているものも多く、昔はもっとたくさんのマラソン大会が開催されていた。そういう過去の大会のコースを走って、その地の歴史を踏みしめるのもおもしろいかもしれない。

 

sano-marathon.jp